昭和三十九年十一月十五日 朝の御理解


 信心の稽古をさせて頂く。日頃の信心の稽古させて頂いておるその稽古が、いろんな問題に直面する時に現れてくる。日頃稽古させて頂いておる信心に物言わせると、どのくらい自分が力を頂きたい力を頂きたいと思うて信心の稽古をしておるが、果たしてどのくらいの力を頂いておろうかと、皆さん思われるような事ないですか。自分はもう本当に椛目に、何年か又は何十年か日々思いをさせて頂いて御教えを頂いて、それをまあ行の上に現して、まあ日々の問題に取り組んでの稽古をさせて頂いておるが、その力というものが、どのくらい自分は頂けておるか一辺その力を現してみたいと思われるようなことはないですか。
 私は本当に信心の稽古をさせて頂いておるというなら、それを現わす場がなかったら、たまらんと思うね。例えば相撲なら相撲が、場所から場所まで一生懸命のまあ稽古をする。まあそういうような場所になった時に、そこで土俵の上に自分の稽古をしてきた技なり力なりが発揮できる。そこに例えば、お相撲さん達の稽古の楽しみといったようなものがついてくるのじゃなかろうかと。十何日間の間に、充分それが発揮でける。
 そこで思うんですけど、信心の力とか稽古とかによって、力を得るとか徳を受ける言うですけど、それがね、この我情我欲の場ではそれが発揮でけんのです。どうしても自分の事になると、自分の感情が出たり、情が出たり、我が出たり、欲が出たり、ですから日頃稽古しておる力をつけておるんですけども、それに災いされて充分の力を発揮する事がでけんのです。
 今日もお取り次を頂いて信心の稽古をさせて頂きますと例えば、福島さんなんか毎日最近のお届けは、どうぞ、私に力を与えて下さい。何をするのにも力なしにはでけん。どうぞ、力を頂きたい。それが日々のお取り次を願われる中心になってある。だからそうして稽古させて頂いておるのですから、お取り次を頂いて、言わば稽古させて頂いておるのですから、それを何とかの場合にです何とかそこに現わされる。そう思うて参りました。
 はあー自分には、このくらいの力が頂けておるんだなーと、その力を私どもが自分で感じる時に、いわゆる信念というものが生まれてくる。言うなら自信が生まれてくる。はあー自分にもこのくらいの事はでけるんだと。我情を放し、我欲を放して打向かったら、これだけの力を頂いておるのだなという事が分かるです。
 これはまあー私の事なんですけども、まー北京から引き揚げて帰って参りましてから、こりゃ今までのような何十年してきた信心じゃつまらんな。こりゃ本気で信心の稽古をさせてもらわにゃいけんなというところから、本気で信心の稽古をさせて頂いた。それで只今、申しましたような事なんです。帰りましてもうさっそく翌年が四十年の親教会の記念祭でした。又は御霊さんの初代の十五年の記念霊祭でした。次々とおかげを受けなければならない場があった。例えば私はその当時思っていたんですけど、こと神様ごとにおかげを頂きたいと願ったらです、思い以上のおかげを下さった事です。
 その当時に、私はいつも感じた事は、ははー神様ごとにこれだけの例えば一分一厘の間違いのない神様の働きを見せて下さるのであるのにかかわらず、自分の事に神様が力を見せて下さらないのは、ちょっとおかしいと思ったんです。そして分かったのは、只今申しますような事。自分の事には、我情我欲というものが入っているのである。そこで自分自身の事でもです、その我情のない我欲のない事になってきたら、同じおかげを頂けるという非常に私はうれしいものを感じたですね。
 こと神様ごとに一生懸命打ち込ましてもらう。さあー大祭だと記念祭だという時には、どうでもこういうおかげを頂きたいと願っているとそれに上回ってのおかげを下さった。神様ごとにはおかげを下さるのに、こんなに間違いのないおかげを下さると。いわゆる日頃の信心の稽古さして頂いている力というものが現わされる所という場というのは、そういう場がまずまず一番現わしよいのです。我情がないでしょう。我欲がないでしょう。もう只一途にです、今度の記念祭は今度の御大祭は今度の御霊様のお祭りにはという、只一途に神様ことだけしか考えないでしょ。
 そりゃいくらその神様ごとだといってもですよ、力なしには神様のおかげ下さいませんよね。ですからそこに日頃信心の稽古させて頂いている信心の稽古に物言わせる時期というのが、そういう場に発揮できる。発揮させてもらう時にです神様は、言うならご自分のことなら、こんなに言うこと聞いて下さるということ。神様ごとに関してだけは、こんなにはっきりとおかげを見せて下さるということ。その神様がです私自身の事になったら、右が左に、左が右になるのはどういうわけかと。お祭りのご挨拶の後で、福島さんが言いなさいました。
 力を頂きたいとだからそれが福島商店の上に例えば現わそうたってまあー無理だと思うです。まだ二、三年の信心でです我情や我欲がでらんはずがないからです。自分の思いがでらんはずがないからです。三年なら三年の信心の稽古をさせて頂いた。その稽古の言うならば、力というか実力というものが、我情我欲のない場においてはじめて発揮される。それは何と言うかお広前中心とか、こと神様ごとといった場合に充分発揮できる。そしてははあー私にもこれだけの稽古が出来ているんだなーという自信。いわゆる信念がいよいよこれに頂ける。ところが自分のことの場合に、例えば福島商店にはそれが現れない。はあーこれは我情があるから、我欲があるからと分かるからです。我情我欲を取ることが楽しくなってくるです。
 いつものように控えておるところのここの十五年の記念祭。そのために様々な計画がなされた。そのために委員の方の委員会が設けられた。まだ一年先の事と思うけれども着々としてから、神様のご準備だけは進められている。だからそれに勿論便乗しなければならん。例えばあれがね、神様ごという時にはね、神様がいよいよこう発動ましますんですよ。十五年の記念祭という時には、神様がそれに勢いづいてみえるわけです。それに私どものそうした所謂信心の勢いというものがね合わせてなる時にです、そこに大きな働きであり、大きな力というものが養われるわけです。
 これなんかのちょっとした実例を申しますならばですね。今日は美登里会の方達が信心実習をします。美登里会が発足致しましてから三年ですが、毎年信心の実習会がなされます。こと自分の事は届かなくてもです、信心の実習を本気でさせて頂こうという時には、もう神様が実にこれは不思議な働きを見せて下さることです。ことそれが自分の事じゃないからですよ。もうそれは恐れ入ってしまうように働きを見せて下さるんですよ。ですからこれが自分自身の事にならして頂く時にも、そういう働きが頂かなければならんのだけれども、自分自身の時には、我情がある、我欲があるのである。信心実習会の値打ちはそこにある。はあーこと椛目を上げての時は、こういう働きを下さるのに、自分一人の時はなぜ出来んのか。これは自分の時には、我情が我欲が入っておるからそういう働きが現わすことが出来んのだということが分かるです。
 今私が申します。こりゃ私自身のこと。今申し上げた事と同じです。だからそういう場の時に、例えば日頃信心の稽古をさせて頂いている。美登里会なら美登里会の方達。信心日頃信心の稽古をさせて頂いておる。言わば稽古のさせて頂いている力というか、思いを発揮する事が出来る。だから信心実習会のような時に気持ちになれば、そういうおかげが受けられるという事になるのです。私どもが記念祭だ大祭だという時にです、こと神様ごとという時に一生懸命ならせて頂いたあの気持ちになれば、おかげが受けられるという事になるのです。こと自分の事になってくると我情が入っている。我欲が入って、所謂不純なものが入っておるところに神様の働きが働きとして現わすことがでけないということ。
 椛目の場合でも、そしていよいよ記念祭を一年後に控えて様々な計画がなされておる。私どもも一生懸命なら神様も一生懸命。昨日でした久富政喜さんが、丁度下がろうとしましたら出てまいりました。先生、こういう話があるんです。記念祭前の一つの行事としてから、まあー言うなら最適じゃなかろうかというお届けがあった。私もそれをお取り次させて頂いた。ほうーしかし神様の働きちゃ素晴らしい事になってくるねと。例えこれが実現するせん、その致しませんでもです何という私は素晴らしい神様の働きじゃろうかと思うてお取り次させて頂いて下がらしてもらい、ちょっとお昼でしたからお昼終わって、政喜さん急ぎますから帰りよりました。帰りのご祈念ここで自分でしよりました。私と久保山先生はあちらにおった。久富さんもお気付きでしたけど、ちょどその時でした地震がありました。もう後立前こう揺るような、座とってから感ずるくらいな大きな地震でした。昨夜その事で、秋永先生と高橋さんと夕べ遅くから見えられた。丁度私どもが休む一時半でした。一時半までまあーその事で一生懸命いろいろと話をさせて頂いたんですけども、その時ふっと今日は地震があったですね。丁度政喜さんが来て帰る時にご祈念しよる時じゃったと秋永先生が言われるんです。はあー天地が動きござるですなーち言うてからそん時、私ははじめてふっと気が付いたんですよ。
 なるほど天地が動きござる。いわゆる天地が発動ましますとそういう時にです、そういう時に私どもがその神様の勢いに便乗させてもらって、日頃の信心に物言わせるというような気持ちにならせて頂いて、本気で御用にお使い回し頂きますようにということによって、どのくらい自分に御用に使われるかという時に、私は自分が日頃頂いている信心がはっきりしてくるのじゃないかと思うんです。そしてこと神様ごとに、これだけのおかげを頂けるのであるから、自分の事だってあの用をもってするならば頂けるという言わば自信がついてくる。もちろんそれが段々信念になってこなければなりません。
 今日の美登里会の方達の信心実習も同じこと。こりゃ毎年のことですけども、それは唯々恐れ入ってしまうです。美登里会の方達の日頃の信心がそういう場において現れてくるわけです。ところがめいめい自分の家に帰ってからは、それだけの働きがないというのはそれには不純なものがあるからだと。だから不純な物さえ取れば、そういうおかげが頂けるという事が分かるです。だから不純なものを取ることが楽しいことになってくるでしょうが。そうなって参りますと、これはまあー本当に私の体験から申しましてです、もう自分の事になって参りますと、どうしても不純なものが入ってまいります。それは神様を信じる力がないからです。だから人情がはいるのです。不純な事になってくるです。こと神様ことという事になったらもう、不純な物がむしろ入っちゃならん入っちゃならんという気持ちなのですから、そこにそうした神様の働きと日頃の信心の稽古の頂く力とが一緒に発揮できるわけです。そこに発揮したいいものが出来てくる。ははあー自分にもこれだけのことが出ける。そんならこれをこのままじっとー自分の家に持っていきゃいいわけなんです。
 ところが自分の家に持って帰りよるうちに、不純なものが入ってくる。そんでおかげにならん。そこで不純な物を取る事ですたい。取りさえすればこんなおかげが頂けるんだという自信がついてくる時に、言わばお広前も自分の家も同じ事というような信心がでけるわけです。そこから頂くところのおかげ。もう一つ折角日頃信心の稽古をなさっておられるのですから、その稽古をさせて頂いておる稽古のどのくらいの実力を養うておる事がでけるかということはです、その試すんだというものが恵まれたり与えられたりする事は実に有難いことだと。そして充分自分の力を発揮さして頂いたその力をです、自分の家に自分の店に又は自分の周囲に中心とするところの様々な事柄の上にです、現わしていけれるようなおかげを頂かなければならんと思うのです。おかげ頂きました。